江戸 東京の旧称。由来は江(川のこと 平川や隅田川)の戸(出入口)入り江のこと
江(川)の湊
江(川)に臨むところなので江所が江戸になった
荏胡麻の繁茂する荏土(えど)が変化した
余戸からきた。律令化では郷に満たない集落を余戸(あまるべ、あまりべ)
と呼んだ。そこから「よど」になり「えど」
アイヌ語説では“etu(宇土・烏頭(うとう)と同じく出っ張ったところ、
岬または端の意味)”に由来するとする
今津・亀津・奥津という地名が、現在では今戸・亀戸・奥戸と称されている
事から、「江の津」とする
など諸説ある。平安時代中期に編纂された『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)には江戸郷の名前はまだない。鎌倉幕府の歴史書である吾妻鏡』治承4(1180)年8月26日条に江戸太郎重長の名前が出てくるのが「江戸」の名の初見だが、江戸重長の父、江戸重継から江戸氏を名乗っているので平安時代末期には江戸郷が成立していたと思われる。「郷」とはいくつかの村をまとめた単位で、複数の村を併せて江戸郷と呼んだ。それまであった湯島郷や日頭(ひのと)郷から分かれたものか。平川(現在の神田川、日本橋川、皇居内堀)の河口に江戸湊が成立したと思われる。江戸氏が館を築き、太田道灌が城を建て、後北条氏の支配を経て徳川家康の城下町となり日本最大の都市となる。江戸の町は江戸時代に拡張していくが範囲は曖昧であった。
1 町奉行が支配の対象とする江戸 江戸の町人地に限定。町人地の発展とともに、
外延へ拡大。
2 勧化場(かんげば)…寺社建立等のため寄付を募ることを許可された地域。
1より広い範囲。
3 江戸払の御構場所とされる江戸 御構場所…追放刑者が立ち入ってはいけない
地域。四宿(千住・板橋・品川・内藤新宿)以内と本所・深川。
4 札懸場(ふだかけば 芝口)が対象範囲とする江戸。札懸場…その対象範囲に
おける変死者や迷子の年齢・衣服の特徴等を高札によって掲示した場所。1より
広い範囲。
5 旗本・御家人が外出を届ける際の江戸。江戸御曲輪内から四里以内。
6 本郷 本郷もかねやすまでが江戸の内と言われた。本郷までは防火のための
瓦葺きが義務付けられた
幕府目付・牧野助左衛門(まきのすけざえもん)は1818年(文政元年)8月、市域の確定を求める「御府内外境筋之儀」についての伺いを提出し、それを受けて同年12月、老中・阿部正精(あべまさきよ)によって示された幕府の公式見解が朱引である。江戸の範囲はその地図上に、江戸城を中心とする朱色の線(朱引線)で囲まれた区域として示されている。これは、歴史上初めて正式に示された江戸市域(大江戸)の範囲であり、「朱引内(しゅびきうち)」、「御府内(ごふない)」、などとも呼ばれる。その呼称は明治時代に至るまで使われた。朱引の範囲(大江戸)は、「四里四方」といわれ、東は平井、亀戸周辺、西は代々木、角筈周辺、南は品川周辺、北は千住・板橋周辺までである。現在の行政区画では千代田区、中央区、港区、文京区、台東区のほぼ全域。新宿区 (上落合村、下落合村まで)、墨田区(木下、墨田村まで)、江東区(亀戸まで)、品川区(南品川宿まで)
渋谷区(代々木村まで)、北区(滝野川村まで)、豊島区、板橋区(板橋村まで)、荒川区(千住まで)
同時に黒線が引かれていたが、これは墨引(すみびき)と呼ばれ、町奉行所支配の範囲を示していた。墨引は、目黒付近で朱引の外側に突出する例外を除いて、朱引よりも更に内側の小さな環状域であり、明治維新以降は東京市や東京15区の範囲となった